2011年02月14日

國森康弘氏「週刊読書人」

フォトジャーナリストの國森康弘氏http://www.kunimorifoto.net/が「週刊読書人」(2月11日)に以下のような書評を書いて下さいました。
 國森氏は、京都在住のフォトジャーナリストで、JVJAのメンバーです。
 氏の一字一字、彫り込んだこの文章に、強く感銘を受けました。
 同時に、私の真意を深い部分でくみ取って下さったことに、感謝の念が耐えません。

 氏の許可を頂き、ここに掲載させて頂くことになりました 

 41歳の妻がくも膜下出血で倒れてから息を引き取るまでを、写真家としてジャーナリストとして、何より夫として、刻み続けた十日間の記録。
 著者の心情、妻の息遣い、小学生だった娘の苦しみが、言外含め読み手に迫る。本著のどこを切っても鮮血が噴き出す錯覚にとらわれた。この本は生きている―。著者の「魂」が宿る。
 それはひとえに、著者がこの状況に置かれて「再確認」した部分も含めて、妻への強烈な愛と哀しみによる著者と妻の距離感、あるいは著者と本書との距離感がそうさせているのだろう。過去の桃井氏の著作とは一線を画し、徹底して一人称で綴られるそれは、読み手の心を打つ深い愛の物語であると同時に、「距離」があまりに近すぎて、他者即ち読者の一部は入り込めない恐れのある、諸刃の剣でもある。
 しかし、ジャーナリストとしての描写の克明さは病院側の対応、面会者たちの功罪をはじめ、若くして死を迎える(最愛の)患者の様子、正気を失っていく自身や身内の感覚、までを(著者が書くように)「見聞きした出来事を、血肉化し、再構築し」、「自分の身体の中に宿らせた事象を、己が握りしめたナイフでえぐり出す行為」として見事なまでに結実させている。
最愛の者に迫りくる死と家族の苦悩をここまで描写し切った本がほかにあるだろうか。05年、生まれる赤ん坊より死にゆく人の数の方が多い「人口減少社会」に突入した。将来百万都市が毎年一つずつ消滅する「多死社会」を迎える我々にとって、自分の死をどこでどう迎えたいか、家族の死をどう受け止めるか、脳死になれば臓器提供するのか、延命措置を希望するかを、日頃から考え、家族で話し合い、書面に残しておくことは肝要であり、その際にも本書は大変貴重な存在となる(私は『家族を看取る』(平凡社)で看取りの場やその意義について書いたがあくまで三人称の距離感で、である)。
さらに、一四〇カ国を回ってきた著者ならではの特徴は、最期の十日間を時系列で追った各章に、紛争地など各地で三人称的距離感で見てきた「死」を織り交ぜている点だ。例えば一日一万人の割合で人口の計八分の一が命を奪われたルワンダの大虐殺について、殺人者は「善良な市民」だったことを取材し、「日本ででもジェノサイドは発生する可能性がある」ことを感知する。内戦下のインドネシア・アンボンではムスリムも、キリスト教徒も、死体に卵を産みつけようともがくハエも、「すべての生命は、等しく、絶えず命を狙われる存在なのだ」と悟る。「死を生む社会構造のひずみ」を次々と暴くのみでなく、妻の死を通して「生死」を捉え直す作業を重ねていく。
大抵の人には経験できない修羅場と死の現場の数々に長年踏み込み続けてきた―自身の死をも覚悟してきた―著者の「心」がたった一人の、しかし最も大切な女性の、「死」によって瓦解した。その死は、キリスト者である著者を四国遍路にいざなった(改宗という狭義の意味ではない)。その死は、幼馴染の死から逃げるように世界を彷徨った著者の「原点」を見詰めさせた。その死によって著者は命の重みを総身で知り、祈りの意味を肌で理解し、そして浄土を感じた。
…本書は生きていると書いた。ならば、死が来る。それは読者が最愛の人を亡くすとき。自分たち自身の物語が生まれるからだ。あるいは自身が死ぬときかもしれない。

『妻と最期の十日間』桃井和馬著  フォトジャーナリスト國森康弘(くにもり・やすひろ)
posted by momoikazuma at 12:18 | TrackBack(0) | 記事
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