2010年08月26日

「地球の目撃者 パタゴニア編」

8月26日

 今年1月、テレビ朝日で放映した「地球の目撃者 パタゴニア編」が、BS朝日で再放送されることになった。詳細は以下の通り。

 BS朝日 2010年9月18日 午後3時。
 もし、ご覧になっていない方は、是非、ご覧ください。


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2010年08月24日

リーマン予想

8月24日

 NHKスペシャルで以前放送した「魔性の難問 リーマン予想・天才たちの闘い」をオンデマンドで見た。
 https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2010019641SA000/

 HPの解説は以下。
『「リーマン予想」はドイツの数学者・リーマンが1859年に提起し、150年たった今も解かれていない数学史上最大の難問です。「リーマン予想」は、「一見無秩序な数列にしか見えない“素数”がどのような規則で現れるか」という問いに答えるための重要な鍵です。「創造主の暗号」とも言われる素数の謎をCGや合成映像を駆使して、わかりやすく紹介し、その魔力に取りつかれた天才数学者たちの格闘を描きます』

 一見無秩序な素数だが、なんと原子核の間隔と同じなのだという。そればかりか、素数はプリズムが分解した光の並びとも同じなのだという。

 数学者が「数式は美しい」と書いた文を読んだことがある。
 この数学者の言葉が、この番組を見ていると身体の中から理解できる。

 形而上学的数式。
 人間の想像を遙かに超えた世界。
 これを神の領域というのだろうか。

 この番組を見ていて、改めて私が好きな映画「コヤニスカッツィ」を思い出した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%A4%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A3
 風景の背後に広がる人間を越えた世界。
  
 「見える世界」の背後に広がる「見えない世界」
 そうた認識が、アフリカでも、中南米でも当たり前の感覚だった。
 私には、それら二つの世界がある方が、「ひとつしか世界はない」と信じるより、豊かに思えて仕方がない。
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2010年08月23日

切なすぎる夏

8月23日

 またしても、出会った方が亡くなられた報を受ける。
 私の作品を本当に高く評価してくださった方で、亡くなる3ヶ月ほど前に、会っていた。
 人間を越える世界のこと。
 今の社会のおかしさについて、その方は、短い時間だったがまくし立てるように話してくれたのが印象的だった。

 地位もあり、お金もある。
 しかし、最終的に自死を選んだのだ。
 7月のことだと聞いた。

 切なすぎる夏。
 昨日は、汗を垂らしながら、ただひたすら歩き続けるしかなかった。

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2010年08月16日

65回目の終戦記念日

8月16日

昨日は65回目の終戦記念日だった。
 日本はどんな社会を目ざし、どこに達してしまったのか?
 友人が今年、「そんな8月15日を写真に撮る」という企画を立ち上げたので、昨日は炎天下の中、街で写真を撮り続けた。
  http://thedayproject.jp/ 

 前日、TBSで放送された倉本聰のドラマ「歸國(きこく)」を見ていた。
 ドラマの善し悪しは別にして、倉本聰の、今の社会に対しての焦燥感が良く表現されていた番組だった。

 戦死した人間は、今のような社会を作るために敵の前に身体を投げ出したわけではない。
 金とか、利便性とか、そんなものでは計れないもののために、戦地に向かったのではないのか?
 
 しかし、その戦争から65年経った日本という社会は、金とか、利便性を追求するだけの社会に成り下がってしまった。

 終戦記念日の昨日、街を歩いていると、ずっと「成り下がってしまった」社会ばかりが目についてしまった。

 精神の劣化が行き着く所まで行ってしまった国。
 そして、その一翼を私もが担っているのだ。

  
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2010年08月12日

知り合いの「死」

8月12日

 知り合いが亡くなるというのは、本当に辛いものだ。
 それが特に若い人の場合だとなおさらである。

 先月、私が中心になって進めていたプロジェクト  Eyewitness  のメンバーでもある写真家が亡くなった。49歳だった。

 倉沢さんのHP http://www.kdot3.com/

 写真のジャンルはまったく違ったが、しかし、表現に対して、また生きることに対して真摯な方であった。

 無常。
 すべての宗教は、「死」の中から編み出されてきた。
 絶対に逃れられない状態。
 それを生きているものはどのように受け入れていくのか・・・・。
 受け入れるためには、人間を越えた領域を信じるしかないと、私自身は考えている。
 それが人によっては神であり、またある人にとっては神々であり、仏と呼ばれることも、大地の女神と称されることもあったのだろう。 

 長い間、冬眠状態にあったブログを、私が再開したのも実は、この件がきっかけのひとつになっている。

 今を書き留める。
 伝え続ける。

 それが世界中で様々な人と関わった者の責務だと感じるからだ。

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2010年08月11日

桜と花火

8月11日

 数日で舞い散る桜。
 「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!」
 と書いたのは梶井基次郎だ。
究極の「終焉」を足元に置いているからこそ、究極の美をまとうことができる。
 梶井は、それを上の一文で表現した。

 昨夜は地元の河原で5000発を打ち上げる花火大会があった。
一瞬だけ夜空を様々な色で染め上げる花火が、魂を打ち上げているようにも私には見えた。
 
 ある村では、その年に亡くなった人の家族が鎮魂のために、花火を奉納したと聞いたことがある。
 夜空を染め上げる花火は、激烈な生と死を日本人に教えてくれる。

 生の儚さと、その先にある死が見える花火。
 花火を見ながら、死人(しびと)との対話を続けた。
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2010年08月09日

コヘレトの言葉

 旧約聖書の「コヘレトの言葉」(新共同訳)を読んでいた。
 その中でも特に響いたのが、以下の箇所。

 知恵が深まれば悩みも深まり、
 知識が増せば痛みも増す。
(コヘレトの言葉1章18節)

 この書は賢者として名高かったソロモン王が書いたと言われ、古い聖書(口語訳)では「伝道の書」と言われていたもの。

 それにしても驚かされるのは、2000年以上も前に、人は知恵と知識の限界に気づいていたことだ。

 そして1章の2節にある言葉では
「コヘレトは言う。
 なんという空しさ。
 なんという空しさ、すべては空しい」

 この箇所にある「空しさ」という部分のヘブライ語は、形容詞ではなく名詞だ。そのため「空しさ」ではなく「空」というのが正しい訳だと木田献一は(旧約聖書略解)の中で記している。

 ちなみに新改訳の聖書では「コヘレトの言葉」は「伝道者の書」にあたり、
「空の空。伝道者は言う。
 空の空。すべては空」

 となる。

 基本的に新共同訳を日常的に使っているが、しかし、この部分は圧倒的に新改訳の聖書の方がわかりやすいし、言葉が的を得ている。
 コヘレト=ソロモン=賢者が伝えたかったのは「空」とう状態なのだ。

 そして、これこそ、般若心経の「色即是空。空即是色」の心境に近い。
 
 空は無ではない。
 
 ダライ・ラマは「空」を、「すべての関係によって存在する状態」と発言している。
 これは「自己を中から規定するのではなく、外から規定する方法」とダライ・ラマは、ある本のインタビューで付け加えていた。
 つまり、「意志を持つ自己」と内部から自分を規定するのではなく、
 外部から、「友だちに親切を受けた存在」
  「卵焼きの栄養を取った存在」
     「満員電車の中のひとつの原因を作った存在」

  など、自己の周りで起こったことを点描画のように集めることで自己を規定する概念なのだ。

 これは「我思う、ゆえに我あり」と自己を内部から規定したデカルトとはまったく逆の方法による自己の規定方法なのである。
 
 それにしても、それほどの境地にまで、宗教は違っても、賢者たちは入ることに驚かざるを得ない。
posted by momoikazuma at 10:06 | TrackBack(0) | 記事

2010年08月07日

高尾山

 昨日、高尾山の山中を20キロほど歩いてきた。
 
 先月、またまた四国の遍路を歩いてきたので、すでに身体が出来ている。
 だから20キロ程度なら山道でも楽しく歩くことができる。
 
 しかし、高尾山で、茶屋もあるし、ある場所もわかっていたことが逆にハンディとなった。
 8月の夏休み中だから、開いていると想定していた茶屋がすべて閉まっていたのだ。
 茶屋で軽く食べるのを楽しみにしていたため、食料はまったく持っていない。

 結局、高尾山口から陣馬まで何も食べずに5時間あまりを歩いた。
 途上、お腹がかなり減るものの、水分摂取だけで凌ぐと、お腹の減りは感じなくなった。
 これも身体の不思議か?
 たぶん、栄養が入ってこないことで、身体は蓄えていたグリコーゲンを使い始めていたのだろう。
 
 60兆の細胞からなる身体には、どこまで不思議は詰まっているのだろう。

 その中で感じたこと。
 たとえ苦しくでも、足を一歩ずつ前に出すと、必ず最終目的地に着く。

 歩くことは生きること。
 人生の縮図だ。

posted by momoikazuma at 14:54 | TrackBack(0) | 記事